玄武山 普濟寺は、禅宗のうち臨済宗建長寺派に属し、多摩一円に末寺18ヶ寺を有する同派屈指の名刹です。
その開創は古く南北朝時代の文和2年(1353年)で、当時、立川一帯を領有していた立川宮内少輔宗恒が、鎌倉建長寺から物外可什禅師を招いて開山とし、その居城の一隅に一族の菩提寺として、一宇を建立したことにはじまります。
以来、立川氏の庇護のもとに、多数の僧侶が修行に励む荘厳な道場として隆盛を極め、また、貞治年間(1360年代)からは、約40年間にわたって、いわゆる普濟寺版大乗経典を刊行、当地方の仏教・文化の殿堂として重要な役割を果たしておりました。
しかし、応永の末頃から永享年間(1430年前後)に至ると、打ち続く戦乱の中で立川氏は没落し、相前後して普濟寺も一時衰退の憂き目を余儀なくされました。
その後、約百年間の歴史は詳かになっておりませんが、永正年間(1504~21)に入ると、立川一帯は高幡(日野市)城主平重能の勢力下となり、普濟寺も同氏の帰依を受けることになりました。
そしてその施財によって面目を一新し、寺域も旧立川城の一隅からその全域へと拡大、約一万坪の境内には七堂伽藍をはじめ、六院の塔頭が甍を並べるに至ったといわれています。
平氏はその後間もなく後退し、かわって天文の末頃(1550年代)には、後北条氏の幕下となった立川氏が勢力を挽回し、再び普濟寺の大檀那となりました。
しかし、それも束の間のことで、天正18年(1590年)、同氏は豊臣軍の攻撃を受け、主家北条氏とともに敗れ、その際普濟寺も兵火に罹って大半の堂宇・寺宝を焼失してしまいました。
翌年、徳川家康より御朱印20石の地が寄進され、命脈は保たれたものの、以後しばらくは衰微状態から脱し得ませんでした。
堂宇の再建は数十年後の万治年間(1660年頃)に至って始められ、そして元禄4年(1691年)までに方丈・仏殿・庫裡・鐘楼・塔頭(心源庵・有慶庵)が復興され、ようやくにして『江戸名所図会』の挿絵にみられるような荘厳な景観を現出するに至りました。
なお、仏殿と有慶庵は明治初期に、老朽化したため取り壊され、また、庫裡・本堂はそれぞれ嘉永6年(1851年)、昭和15年に再建されました。
明治に入ると、寺内に皇族の別邸が設けられ、皇太子時代の昭和天皇をはじめ、皇室の方々が相次いでご来駕あそばされました。
こうした所縁により、昭和45年10月の楼門落慶に際しては、三笠宮崇仁殿下・同妃殿下ご来臨の栄を浴しました。
平成7年4月、心無い者の手により放火の憂き目に会い、本堂・庫裡・客殿・書院など、また重要文化財に指定されていた開山物外可什禅師坐像、本尊聖観世音菩薩像などの数多くの建物、寺宝を焼失しました。
事後処置のため、住職、檀家総代を中心にして同年11月『普濟寺再建委員会』を発足・設置し、再建事業に着手しました。
以後50回の会議を経て今日に及び、新本堂建築落成をみました。
約10年の歳月をかけて再建することができ落慶式が執り行いました。
それと同時に当山住職の晋山式も執り行いました。